感受性と連句


エネルギーの源「感受性」

 人と人とが言葉を交す時は、概ね、われわれの意識(あるいは無意識)が即時に表現されて体裁をなします。議論や対論や対話、あるいは交渉に於ける発言になると、意識が即、言葉とはいかず、様々な濾過作業やプロセスを経て表現形体がとられるのが普通です。

 様々な濾過作業やプロセスの中で、意識的あるいは無意識にと思える程、瞬間的に通過するものに「五感」があります。それは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五官に感じるものや、知・情・心・気、記憶・経験・体験、我執、本能、真空、などを源として感応するもので、言い替えるなら、それが「感受性」というものなのかも知れません。
 フロイトやユングの論を待つまでもなく、それらは、人間の生命活動全般を通じてあらわれるエネルギーに通じます。いわば、エネルギーの一翼を担うものに「感受性」というものがある、と言えるのでしょう。
 人と人とが言葉を交す、議論や対論や対話、あるいは交渉に於ける発言を繰り返す、という作業は、それが嘘やレトリックであろうとも、文章で言えば「長文」あるいは「論文」を書く、ということになります。言い替えるならば「感受性を総動員して言語を用いて文章を書く」ということになるのでしょうか。
 しかし人間は、習得したボキャブラリーの範囲による言語しか用いることが出来ないのが現実です。だから、誤解が生じたり、あらぬ拡大解釈に通じたりと、言葉を用いての表現は時として迷路を彷徨うことになったりもします。

 人間は、言語表現という行為を繰り返しながら、自らが、ある時は防衛本能の塊となり、またある時は自己主張の亡者となり、詭弁で自爆して墓穴を掘ったり、あるいは「輪郭」をはっきりさせるように、よりクリアーにしていったり、と、経験則に準じて巧みになっていきます。そういう意味で言えば、言葉という表現行為とは、多義な意味や語から適切不適切なものを取捨選択し、アナーキーな意識や想念や語群に秩序を与え、一つの形を象(かたど)る行為、と言えるのかも知れません。

 しかし、そうした表現行為だけでは不十分、ということは誰もが感じています。独り言以外、すべての表現の先には、相手、というものが存在します。そして、相手も表現をします。それが言葉のキャッチボールとなって続いていきますが、うまくキャッチボールができるかと言えば決してそうではないのが現実です。

 言葉のキャッチボールが出来るか否かで、コミュニケーションが成立するかしないかが決まります。その要(かなめ)になるのが、「相手の言葉を感じようとする気持ち」と「自分に対する気付き」です。そして、それを大きく欠落させているのが現代という時代です。そういう意味で現代は「感受性喪失の時代」と言っても過言ではないでしょう。

 それを補完するのに「連句」は極めて重要な役割を担っています。
 相手を理解することは容易ではありませんが、連句は、相手の言葉を感じようとする気持ちには自然と至ることができます。というよりむしろ、前句を受けて後句を付ける、その行為は「感受性を総動員して言語を用いて句を付ける」というものですから、相手の言葉を感じようとする気持ちに至ることができないと連句そのものが成立しないということでもあります。

 しかも、五・七・五の長句には七・七の短句を付け、七・七の短句には五・七・五の長句を付け、というふうに、より簡潔さが求められます。
 そして、感受性が響き合い、感受性そのものにもより磨きがかかっていきます。「感受性を総動員して言語を用いて、より簡潔かつ適切に句を付ける」という行為の連句は、「感受性喪失の時代」にあって「感受性満開の世界」を創造するものなのです。そうなると連句はもはや「座の文芸」の枠だけでは語られないものとなります。

 「感受性喪失の時代」ということは、言い替えるなら「エネルギー消失の時代」だとも言えます。
 人間の生命活動全般を通じてあらわれるエネルギー。その源につながる感受性。エネルギーは、そこに停滞することなく表象の自己(我)や深層の自己(吾)、他人の表象や深層(予)など、それぞれの階層を環流します。そこにある感受性は、それらと交流し、自我や他我をつかまえ、新たなものを発現していきます。それを機能させる力を連句は潜在させているのです。

 連句が開花させる感受性。その響き合いは究極の文化創造にもつながっていくのです。


※このページは、暫時、追加および加筆修正していきます。


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