新時代に向けての農政 規制緩和と自由化の中で-1990年代の頃


米管理すら出来ていなかった/無責任さを露呈した農林水産省

 1993(平成5)年の夏、日本列島は異常な低温に見舞われ、米の作況指数は74という時を迎えた。

 日本には「国民食糧ノ確保及国民経済ノ安定ヲ図ル為食糧ヲ管理……」を第一条にしてはじまる食糧管理法があり、1983(昭和58)年の水田利用再編第三期対策では「米備蓄開始」が決定されているから、一度の不作に対しては国民は不安を抱く必要はない、筈だった。

 ところが、その食糧管理法を司る主管官庁自らが、その基本的責任での仕事を事実上放棄、「米備蓄量はたったの26万tだった」という無責任な現実を見せつける。そして、慌てて米不足を数の論理だけで補う緊急輸入に走り、あげくは緊急輸入米を余らせ、農政丸抱えの米生産・米流通・米消費は悲劇的状況に遭遇する。

 それと同時にガット・ウルグアイ・ラウンドの決着でのミニマム・アクセスによる米輸入と、外圧や内圧による既成緩和促進も加わって、53年間に及んだ食管制度は、遅すぎた廃止の時を迎える。

 政府は、農産物の輸入自由化や規制緩和促進による制度変更などで、環境変化に対応する基盤をつくるために6兆100億円規模の対策費を投入。それは、誰の目にも「国が米をはじめ農業そのものを管理・統制・誘導」する時代は完全に終り、すべての農産物が自由化の時を迎える時がきた、と映るのに十分な情勢だった。

食糧管理法の廃止/監督権に固執する農林水産省がつくりあげた新食糧法

 農政は『新たな国際環境に対応した農政の展開方向』に沿って「稲作農家の自主性に基づいた生産現場の体質強化と、市場原理導入や既成緩和を促した米流通の合理化」の方針を打ち出す。 時代の流れの中であまりにも形骸化しすぎた食糧管理法が、米の市場開放(輸入自由化)という外的要因であっさりと終焉の時を迎え、「売る自由と作る自由」に向かう時が到来したのである。

 しかし、1995(平成7)年11月、「食糧管理法を廃止して、政府が直接的に行なう操作は特定の政策目標を有するところに限定し、自由経済の下での米の需給と価格水準の安定を図る」ことを名目にして生まれた『主要食糧の需給および価格の安定に関する法律』(新食糧法)は、食管廃止どころか「需給計画」の下で、ますます随所に主管官庁(農林水産省・食糧庁)の職域と主導権の確保が講じられた「新たな間接統制型の米制度」と「米流通業界および系統農協に対する再編・統制法」として制定される。

 そして、大枠としては「売る自由」と「作る自由」を掲げながら、「価格水準の安定」を目的とした新食糧法の蓋が開く。

 ある程度の売る自由は早速、これまで既得権を貪り続けてきた米の流通業界と、それに対抗する新規参入組との間で発生する中途半端な米販売での価格破壊を導く一方で産地間競争に拍車をかけていき、ほとんどの米が入札で底値に張り付いて、最終的には稲作農家そのものの受取金額に大きく影響していくのだった。

 さらに、米の価格では食糧管理法時代の在庫米のほうが、新食糧法時代の米よりも価格が高くなるという、新米と古米の、価格逆転現象まで発生させてしまう。

 また、「生産者の自主的判断を尊重する」とした「米の生産調整」は、農協に新たに「生産調整協力義務」を付加したために、実際には、ほとんどの農家が、農協の半強制的な要請による生産調整(減反)システムに取り込まれていき、「作る自由」は、新食糧法施行間もない時期に消えていく。

 一方、農産物の市場開放に備えた「農業経営基盤強化法」や「特定農山村活性化法」に基づいて行なわれる農業や農村を活性化させるための施策は、「国際化に対応し得る生産基盤の確立」や「生産基盤と生活環境の一体的整備」の名の下に、ほとんどが農業土木工事にあてられていき、いつも通りの予算消化型の公共工事による内需拡大策の一部と化していく。

農政の総仕上げ?/そして、農業基本法の見直しと新たな農業基本法づくりが始まった

 戦後50年間、農政は、農業の方向をただ一点、「産業としての農業の確立」に見出だし、その内容を「効率化」に絞り、実現させる手段を「農政への服従」に置き、ありとあらゆる誘導政策で施策を繰り返していった。その中心になったのが1961(昭和36)年に制定された農業基本法だった。

 しかし、その農基法農政は、ただ単に中央集権体制の産物として全国一律に農業の工業化マニュアルを補助金付きで提供したに過ぎなかった。結果的には農基法農政が描いた農業の方向性と誘導政策の道程は失敗に終り、逆に産業としての農業の実現さえ困難にし、農業そのものを窮地に追い込んだ。そして今、今後の農政の基本をあくまでも「経営感覚に優れた農業経営者の自立とそれに対する支援」に置きながら、功無き農政の総仕上げとして「農業基本法を廃止して新農業基本法を制定する」作業が進められている。

 しかし、この新農業基本法制定の動きは、戦後50年農政の反省から内発的に生まれてきたものではなく、食管の見直しがガット・ウルグァイ・ラウンド(多角的貿易交渉)の結果(ミニマム・アクセスの受入)という「外圧」によって実施されたのと同様に、WTO(世界貿易機関)設立に基づいた協定(総自由化を目指す体制づくり)という「外圧」によって、そうせざるを得なくなったから否応なく出てきた動きにしか過ぎないのだった。

WTO体制下での保身農政/あくなき保身と権力に固執する農林水産官僚機構の策略

 戦後農政というよりむしろ明治以降引き続いてきた農政の基本は、農業を規模拡大することだった。しかし、戦後の農地解放で個々に自作農化して細分化された農業は、規模拡大を唯一のものだとする農政からすれば、目標に逆行する大きなデメリットという認識が強い。

 それは、農地解放から12年が経過した1957(昭和32)年の農林白書にも見てとれる。それによると「(農地解放で)耕作者の地位が安定したことは、農業生産力の発展の上に大きな刺激となった」としながらも「(農地解放は)一方で、日本農業の零細性を止揚するものでなかったことも、動かせない事実」と、農地解放の「功と罪」をあげている。

 いわば1961(昭和36)年からの農基法農政は、そのデメリットを克服するための取り組みでもあった。そして、農基法農政下で、規模拡大を促すための農地に関する施策を、あの手この手と打ち続けてきた。

 そしてそれは、「相続による農地分割の制限」「農協を通した農地売買を円滑に進めるための農地信託制度」「農用地利用増進制度」にまで至り、農用地利用増進制度で、所有権の移転による規模拡大から利用権の設定による規模拡大へと、その施策の中心を移したほどだった。

 しかし、それらの施策の甲斐もなく、農政が描いた「土地利用型の規模拡大された農業経営」は、結果として実現せず、現在に至っても依然として小規模にとどまっているのが実情だ。

「農地解放がなければ、生産コストの低い農業経営ができたはずだ」。農基法農政下で遅々として進まない「農業の規模拡大と農地の流動化」に苛立つあまりに、そう口にする農政関係者は、少なくはない。農政からすれば、中途半端な民主化が進んで統制しずらくなるより、むしろ思い通りに権力が発揮できる封建的な農村であり続けたほうが良かったのだった。

相互依存関係を見直す農水省/官僚機構の生き残りに向け、農協+企業に相互依存関係を拡大し始めた

 戦後の民主化は、一面では地主の役割に取って代わったかのような農協を出現させた。しかし、農協には今や農業者を統括する力はない。「農協だけには頼れない」。それが今の農林水産官僚の本音でもある。むしろ、農業者を農政の意のままにうまく政策誘導できなくなっている農協には、もう可能性を見出だせなくなっているし、事実、農協と農林水産省の相互依存関係は、WTO体制での自由化を前に、大きな転換を余儀なくされている。

 このまま農協一本槍で相互依存型農政を慣行していると、農政を司る官僚機構が、日本の農協や農業が衰退するのと足並みを合わせるように弱体化の一途をたどり、悪くすれば農林水産官僚機構そのものまでが、不要なものにもなりかねない。それでなくても日本の産業界の中には、「農林水産省を通商産業省に統合して通産省農林水産局にした方がまだましだ」という意見もあるほどだ。

 日本の農業が壊滅しても農政を司る官僚機構が生き延びるには、これまでの農協依存型を大きく見直し、これからは総自由化を目指すWTO(世界貿易機関)体制に沿いながら政策展開するしかない。

 そして、制度上で企業を優遇して企業ともしっかり手を組み、これまで以上に官僚がトップダウンできる体制を確保したい。「日本の農業と心中するのはまっぴら」というわけだ。いわば自らの体制への保身と権力へのこだわりだ。

 それにはまず、企業に農地を取得させ、企業も農協と同様に農林水産官僚体制の支配下におく。そのためには、これまで禁止されていた企業の農地取得を解禁し、補助金あるいは優遇税制がらみの農政誘導で網をかけて企業を取り込む。

 これを批判をかわしながら進めるには、農業生産法人制度に手を加え、企業も農業生産法人として農業に参入する領域を確保する方法が最適だというわけだ。

 そして、企業の農地取得で農地の流動化を促進させ、規模拡大に結び付ける。さらに、より企業の参入を進めやすくするための条件整備として「補助金や助成金誘導での農村工業導入制度の改定」もぶちあげる。

 農業現場に農産品加工をはじめとする食品工場や、あわよくば他産業の工場までも積極的に誘致する農工制度をこれまで以上に優遇措置を用意して整えれば、「農業者の働き先も確保できて、農村の活性化にも結びつく」大義名分も立ち、農林水産省としても、さらに広範囲に監督権が行使できるというわけだ。

 だから、これから検討されて制定される「新しい農業基本法」もまた、結果としては、新食糧法がそうであったように、そして、これまでの全般的な農政機関の動向が顕著に示しているように、まずは農政を司る主管官庁自らの職域確保と監督権や主導権確保を優先させるための手立てが講じられた「さらなる愚策」としての制度にとどまっていく様相を呈しはじめている。

新農基法が示す農政機関の限界/そして、見識の無さを露呈する農政&関係省庁や機関・団体

 その基本姿勢を農政側は、「戦後50年農政を抜本的に見直す中から、これから何をなすべきかを、国際社会という視野で、環境保全や食料の安全性も、国際ルールや国際的な常識との整合性を十分に考慮しながら検討していき、国民のコンセンサス(合意)として制定されるべき」とする。

 しかし、実際の改定作業上での新農業基本法制定に向けての検討骨子は、大枠では1992(平成4)年に策定された「新農政」や1994(平成6)年に答申として示された農政審議会の「新たな国際環境に対応した農政の展開方向」(といっても、農政審議会の実務的な答申づくりは、農林水産省・官房企画室が手がけるので、最終的には現行農政に沿った答申しか出ない仕組になっている)に沿いつつ、次の5点に集約される。

(1)「価格・所得・経営をどうするか」(2)「農地・農法・組織など、農業の構造をどうするか」(3)「国際社会との協調をどうするか」(4)「農業生産や農業経営に加えて、食料という視点の導入」(5)「農業・農村の有する多面的な機能等(環境保全を含む)の位置付け」

 そして、新しい視座は勿論のこと、農業現場で営々と農業にたずさわる人たちの思いや意向を真摯な気持ちになって知る、あるいは知る努力をする、というごくあたりまえの姿勢を、農政および農政機関は今後も持ち得ないまま、あくまでも机上の計画で「産業としての農業」や「輸出入や農業交流という領域での国際化」や「環境としての農業」といった領域の事を考え、民間レベルの動きを巧妙に選別して取り込みながら、これからも不毛な施策を繰り返し、結果としては、基本的にこれからの農業の姿に対するとらえ方の稚拙さまでも鮮明に示していくことになる。

 そして私たちは気付く。戦後50年、農政の姿勢を変幻自在に変化していく「猫の目」と評し続けたのが間違いだったのを。

 農政および主管官庁は、これまでも、そしてこれからも、「猫の目」どころか一貫して産業としての農業の成立とその支配および利害だけにこだわり続け、公僕としての役割を忘れ、自らの姿勢を何ひとつ改めることなく、頑として官僚体制確保と主管官庁主導に固執するための不遜かつ画一的な方策を施し続けていくのだった。

「農政」の項、おわり

前頁先頭ページ「農協」の項へ

ニュース漂流「農・食・医」目次


1996年小社刊行の『農の方位を探る』から抜粋/転載厳禁
Copyright1996 Local Communica't Co.,Ltd