農協の誕生から現在まで、大まかな流れを四項目で集約し、検証。


農協/農業協同組合の誕生
民主的な農業と農村を目指して戦後に誕生した筈の農協は、実質では統制のための組織として成立していった。


日本の農業を取り巻く環境が厳しくなる中で今、肥大化し過ぎた農協の組織改革や意識改革の必要性が唱えられている。

「農協が変われば日本の農業も変わる」「農協職員が頑張れば農業者も頑張れる、農民のための唯一の協同組合なのだから」。そんな期待を込めた声が、方々で持ち上がっている。

しかし、果たしてそうか? 

「協同組合」。それは、川下からあくまでも必然性をもって生まれ、育まれていくものだと思われている。例え、その育まれ方が最初に意図したものとは異なり、時代の流れと共に変質したとしても、どこかに基本的な「生まれた時の意図や精神」は、潜在している筈である。

 そうした認識の下に、農協もまた、「協同の原点に立ち返って」と、事あるごとに期待も込められ、そのあるべき姿が議論されてきた。しかし、それは「あくまでも川下からの要望が突き上がり、必然性をもって誕生した協同組合」であれば、の話。誕生からこれまで「協同組合」を名乗ってきた農協・農業協同組合は、誕生したその日から、実は本当の意味での「協同組合」ではなかった。


戦後復興と民主化の中で/農地解放とセットで実施されたGHQと政府主導の協同組合づくり

 戦後復興と民主化は、GHQ(アメリカ軍が主体になった占領軍)政策の下で「財閥解体」「労働三法の成立」「農地解放(改革)」の3本柱で進められた。

 農地解放は、「全人口のほとんど半分が農耕に従事している国において、長い間、農業機構を蝕んできた甚だしい害悪を根絶しようとするもの」(GHQの農地解放指令)という趣旨の下で、小作と地主の関係を代表とする封建的な弊害を解消するために実施された。

 そしてGHQは、農地解放で自作農化した日本の農業現場の民主化をさらに進めるために、『農地改革に関する覚書』で「農民の利益を無視した政府の官憲的な統制や非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的、文化的向上に資す農業協同組合運動を助長し奨励すること」を指示し、日本政府に農業協同組合をつくりあげるように指導していった。

 しかし、1947(昭和22)年に成立した「農業協同組合法」に基づいてできたはずの日本の農業協同組合は、実際にはそれとは異質の組織として誕生していく。

農協が誕生した背景/GHQと政府の利害調整の末にできあがった協同組合

 GHQによる農地解放は、日本に旧くから残っている封建的な土地の所有関係を一掃し、実際に働く農民自らが土地を持ち、民主的な農村をつくることを目的として実施された。

 そしてさらに、農地解放によって土地を地主から取り上げて自作農化しても、そのまま放置していたのでは、どんな勢力が地主に代わって農村を包囲し、支配するかもわからない、という事から、未然の防止策として、農民が結束して自分たちの利益を守る協同組合をつくることが最良の方法だとGHQは考え、農業協同組合の設立を促した。

 GHQの指令に基づいて具体案をつくった農林省は「すでにある農業会を民主主義の方向にそって部分的に手直しして農協に改編、これを職能協同組合組織とする」とした。しかし、農業会そのものは、戦争中の統制経済体制の中から誕生した食糧供出を強要する封建的な統制団体で、いわば民主化の敵。これを排除するのがGHQの方針であり主張でもあった。

 しかし、日本政府とGHQの駆け引きは、食糧難の解消(食糧供出の徹底)という当面の課題とマッカーサー指令による「反共の防壁」という利害のまえに、GHQが日本の政府案に譲歩することで決着。

 実際には、農業者の意識が高まって議論を尽くし、農業者自らが主体的な組合員となって結集に動いて農業協同組合を作り上げたものではなく、農業会の資産を含めすべてをそっくり引き継いだ形で、政府が用意したひな形に沿って、農業者を組合員としてはめ込むようにして農協が誕生していくのだった。

 そして「農業協同組合法」施行後わずか数か月という短期間に1万3800の総合農協が全国にできていき、都道府県単位の連合会が全国に660も乱立するという結果にもなっていった。

 だから実際には、組合員にしても農協の当事者にしても、農業会と農協がどれほどの違いがあるのか、協同組合が一体何であるのかは、皆目見当もつかない状態での出発になっていた。

政府介入を容易にした農協組織/経営悪化を政府救済でしのいだ組織の宿命

協同組合の何たるかも把握せずに誕生した、いわば泥縄的組織は、運営においても当初から決して明るいものではなかった。

 信用事業では、農地改革が進むに連れて地主の経済力が急速に弱まり、預貯金の引き出しが頻繁に行なわれるようになっていった。そして、米麦を除く多くの農産物が食糧統制から外れると、農業会の遺産を引き継いだだけの運営方針もない、形だけの農業協同組合は、経営形態の確立もままならない状態に陥っていく。

 そしてそれは、アメリカ側から出された経済安定政策「ドッジ・ライン」の影響で、より深刻な状況になっていく。

 その頃の日本は、物資不足と終戦処理のための紙幣の乱発で、急速にインフレが進行していた。その悪化を避けるためにアメリカの公使・ドッジは、課税政策とデフレ政策を指導。独自の打開策を持ち得ない日本政府はこれに従い、今日に至るまでの政策展開の悪癖でもあるアメリカの政策提案に従属しながら行き当たりばったりの政策施行をする原型をつくっていった。

 そのために農産物の販売価格も急暴落、それと同時に、農産物販売に比重が高まっていた農協金融も逼迫し、赤字農協が全体の40%を占め、預貯金の払い出しを停止する農協が全国で255、払い出しを制限する農協が800にも達していった。

 ここから農協は、方針なき組織の姿を鮮明にさせる。

 1950(昭和25)年、農協経営の健全化(赤字解消)を政府に救済してもらうことで成立させようと、農協代表者会議は日本政府に救済を嘆願。政府は、GHQが規定した「農協に国家権力は介入してはならない」ことを理由に、自力での立上がりを農協に指示するのだが、農協はただひたすら日本政府に救済を要請。そして政府の「農林漁業組合再建整備法」「農林漁業組合連合会整備促進法」「農業協同組合整備特別措置法」(再建三法)による二重三重の援助で、農協はかろうじて成立していくようになる。

 また、政府援助に寄りかかり過ぎた農協は、団体再編成問題でも国に依存。1952(昭和27)年頃から頻発した農協組織とは別の農事団体・組織発足の動きに対しても、新しい組織づくりを阻止するために、農協をあげて強烈な反対運動を展開し、政治力を結集してそれらの動きを押さえ込んでいった。

 そして、再建三法で救済された農協は、一気に行政省庁の監督下に入り、1954(昭和29)年に改定された「農協法」で、全国の府県連を傘下におさめた現在の全国農協中央会(全中)を誕生させ、農業現場をほぼ統括する基盤を、政府おかかえの下でつくりあげる。

 それと共に、1955(昭和30)年に成立した講和条約で占領軍の手を離れた日本政府は、農業協同組合設立の定款作成や許認可にも介入できるように改定した「農協法」を盾に、農協組織の完全掌握・支配を手中に納めていく。農協側もまた、行政省庁の監督下での従属が、最も安定した組織の姿であることを認識していく。

 そして、これらを契機に、日本独特の農業協同組合が本格的に成立。これはまた、戦後農政と一蓮托生の歩みを続ける農協の今日に至る姿の出発点にもなっていくのだった。

国家計画に足並みをあわせる農協/行政指導優位の運営方針を選択した組織

 1960(昭和31)年に「もはや戦後ではない」と経済白書で表明した政府は、経済の自立と成長を至上のものと位置付け、所得倍増計画を代表とする経済成長路線を突き進み始める。

 その頃、政府の肝入りによって首の皮一枚で救われた農協は、協同組合の精神を置き去りにしたまま、ただただ農協を維持させていくための米価を代表とする価格支持政策の要求といった政策依存の動きに没頭。経済成長路線上に生まれた「農業基本法農政」に対しても「行政指導優位」「農協経営の優先」を農協運営の中心に据えて従順に対応していく。

 農業地帯をほぼ踏襲する農協は、高度経済成長と相舞って、何ら自らが経営努力することもなく、農業者自らが主体となった協同組合づくりを喚起することもなく、まして農業の岐路を十分に掌握することもなく、農業者が機械化貧乏に悲鳴を上げるのと反比例して、取扱事業高を飛躍的に伸ばしていった。

 そして「信用事業」が1961(昭和36)年の9744億円から1970(昭和45)年の5兆2000億円に、「購買事業」が1800億円から9600億円(昭和37年〜43年)に、「販売事業」が1兆6296億円から4兆8967億円(昭和35年〜42年)に、「共済事業」が3兆6517億円から8兆9000億円(昭和41年〜45年)にと急伸していく。

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1996年小社刊行の『農の方位を探る』から抜粋/転載厳禁
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