協同ではなく統制を選んだ農協
実質では、農業者との協同ではなく農政への従属を最優先した農協の運営。


農政の下請け機関に徹する時代

 農基法農政の金看板「農業の構造改善事業による機械化一貫体系」に、農協は、構造改善事業の事業主体として積極的に関わり、誘導政策に「農政の下請け機関」として従いつつ補助金や助成金に全面的に依存いくようになっていく。

 しかし現実には、補助を受け、せっかく融資をすすめて大型トラクターをはじめとする大型農業機械を導入したり、ライスセンターを代表とする大型施設をつくっても、それを利用するのに十分な周辺環境が整わず、それだけが農業現場で孤立し、稼働率も悪く、ほとんどが遊休化して償却費だけが高くつくという極めて不経済なものになっていった。

 また、例えば農家が、農協の薦める補助事業の下で牛舎を建設する場合などは、柱一本の寸法から材質に至るまで「補助事業の規格」に支配され、雪国でもない地域にも豪雪に耐え得るほどの柱が要求されるという具合に、補助事業を利用すると結局は高くつくことにもなっていった。そして、そうした多くの負担が最後には農家個々の肩に重くのしかかり、農家は機械化や設備投資貧乏に悲鳴をあげるようにもなっていった。

 構造改善事業に絡めて農協が全組織をあげて押しすすめた「営農団地構想(稲作、畜産、野菜などについて生産地を選定して主産地化し、農協が誘導する集団生産によって農業生産を合理化し、生産性を高め、量産と規格化、農産品加工によって市場の支配を高めて農業所得の伸びに結び付けようとしたもの)」も、どのような形で生産し、作ったものをどう売るかという販売面の取り組みがおろそかになり、生産の省力化、効率化を狙った機械化や近代化にばかり力を入れて設備投資が膨らみ、ほんの一部の取り組みを除いて結果的に、殆どが実りのないものに終わっていく。

 営農団地構想は、企業が食品加工に進出し、食品メーカーが農協を飛び越して農業者と直接取引しはじめたのに対抗して考えられたものでもあったが、農協では、1・5次産業に匹敵するくらいの食品加工の技術や能力もなく、市場を支配するとした農産品の加工販売も結局は絵に書いた餅に終わってしまう。

減反受入で補助金依存を強める/食管堅持と米価闘争で、米の取扱手数料に依存する農協組織

 そして、生産資材の売り込みと米の取扱代金ばかりに依存する農協の姿勢は、減反政策の出現で、その対応能力の無さを明確にしていくことになる。

 販売事業の殆どを米の取扱高に依存していた農協は、例えば1967(昭和42)年の販売事業による総取扱高4兆8967億円の内7割以上の3兆6085億円が米の取扱高で占められていたという具合に、何も努力しないでも不労所得としての手数料商売や金利収入で経営が続けられていくという悪癖が染み込んでいた。

 だから、米を取り扱う権利、つまり食糧管理法は、農協にとっては無くてはならないものになり、米価闘争と食管堅持の活動が農協の取組そのものにもなっていった。

 しかし、農協が唯一の頼みにしていた米に、厳しい試練の時がやってくる。食管の見直しと米の生産調整、いわゆる減反である。

 1966(昭和44)年から開始された米の生産調整と自主流通米制度(生産者から政府が米を高く買って消費者に安く売る「逆ザヤ」算定方式から価格や流通量は生産者側と流通側の双方で決める制度)を農協は、農協が米集荷の窓口をほぼ独占する形での自主流通米制度の導入と生産調整に対する補助金や転作誘導の奨励金の支給という条件付で受入れていく。

 そして現実には、農業者の立場を尊重して農協のあるべき姿を追求するというよりもむしろ、農政の立場を尊重して農協経営を進め、農協の利益に直結する食管体制を固持して農協を守るために、「行政の出先機関」の役割を果たしていく。

 そして、政府と農協が一体となって減反を推し進め、生産調整(減反)に対する補助金で財政支出して転作奨励金でまた支出と、雪だるまのように膨らんでいく食管会計赤字地獄をつくりあげていくのだった。

 いくら米が余ろうが、需給を無視して値上がりするのが米価だった。農村票を意識した政治的圧力が、戦後の米価の元凶でもあった。米審が始まったのは1949(昭和24)年。設立の目的は、GHQ(占領軍指令部)に農民の声を伝え、日本の立場を主張するためだった。しかし、1955(昭和30)年、講和条約発効と共に占領時代が終わると、米審は与野党の政争の場と化し、生産者が動員されて実力行使に荒れた。抑制米価を諮問した農相には農民から米が投げつけられ、米価引き下げを諮問した農相は、米審会場に閉じ込められた。自民党と農協主導の米価づくりが進むと米審は、他の審議会のような機能が果たせなくなっていった。そして、政治のおもちゃにされた米価闘争は、着実に日本農業の衰退に貢献していった。

農協合併の開始/農協の経営効率を高めるための合併の姿

 また、1961(昭和36)年に「大きいことはいいことだ」とする農業基本法を背景に生まれた農協合併助成法にも、農協は従順に対応。これまでの市町村単位での行政区域内の農協合併の姿から、事業区域での農協合併、いわば経済圏を拡大するための合併の姿に、農協合併は形を変えていく。

 合併して農協の事業区域が広がって一つの単位農協が掌握する農業者数が増えれば、それだけ信用・販売・購買・共済事業の取扱高も増え、経済効果が発揮し易くなるし資金繰りも楽になる、という考えだ。

 ところが一方では、農協が大型化すれば、農協(組合)と農業者(組合員)の関係が希薄になり、農業者(組合員)の意思や意向が農協(組合)に通りにくくなり、農協(組合)の仕事もお役所的になっていく要素を含んでいる。だから合併するについては、様々なマイナス要因も考えて慎重に行なわれることが農業者(組合員)の側から強く求められていた。

 しかし現実には、それらの事は殆ど考慮されずに、助成金のあるのをいいことに、上(農協中央会および農林省)からの半強制的な指導で、規模拡大という事だけで簡単に合併していく単位農協が大部分を占めていった。そして、助成法が公布された年から1970(昭和45)年までに、1万2000農協から6185農協へと合併が進む。

変幻自在な農協の姿の原型/農業者に対する巧妙な説得テクニックを会得した組織

 農業者(組合員)や単位農協の声が反映されない農政追随型の農協の上部組織への不信や疑念、そして不満が、減反受入でピークに達すると、農協中央会は、1970(昭和45)年の第12回農協大会で「安易な政治依存を廃し、自主自立互助の協同組合精神の本旨に立ち返らねばならない」と、農業者(組合員)や単位農協の不満をかわす努力を必死で開始する。

 そして、「農協の自主建設路線」を確立するために「組織がばらばらになってはいけない。これまでのいきさつを捨て、組合員の自主的な組織である組合の縦横のつながりを強め、総合した力で問題解決に立ち向かっていく」と、にわかに「協同組合」の顔を演出していく。

 だが実際には、その議論の下で出現した筈の『総合三か年計画』の具体的な施策は「組合員(農業者)利益のために」とした「農畜産物の生産販売一貫体制の確立」「生活活動の拡充強化」「物的流通体制の確立」というもので、協同組合としての運営やこれからの方針をどのようしていくのかという内容とは異質の、上意下達的な農協の経営方針が高らかに謳われるだけになっていく。

 そして、これを機に、「協同の精神」と「組合員利益」という極めて便利な論調の持ち出し、つまりは、対策に窮するごとに、あるいは誘導政策を推し進めなければならなくなるたびに、「協同の精神」と「組合員利益」を持ち出しては最終的に農業者(組合員)の不満をかわして合意を取り付けることが、農業者(組合員)に対する巧妙な説得テクニックの原型になり、今日に至るまでの農協の必須の手段になっていくのだった。一方、農業者にしてもその多くが、自らが組合員として農協の運営に主体的にかかわることもなく、まして意に沿わない名前だけの協同組合から脱退することもなく、すべての方針を農協や農協職員に委ねて依存。農協の姿に不満や危機感を持ちながらも「農協が何とかするし、してくれる」という依頼心ばかりが強くなっていくのだった。

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1996年小社刊行の『農の方位を探る』から抜粋/転載厳禁
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